錦の袈裟(にしきのけさ)

TERAYAMA Shizumi/ 8月 12, 2013/ 落語/ 2 comments

$こうたろう.com

クリエイティブな現場に、見栄とかプライドなんてものは
これっぽっちも役に立たなくて
むしろかえって邪魔になるだけの方が多いのだけど
それでも、はったりをかますぐらいの気概は必要だったりします。

いかに自分の作品が素晴らしいのか、ということを売り込むわけです。
ま、はったりが通用するのも三回が限度ですけど。

その三回の間に、はったりを本物にできるかできないかで
その後のプランが大きく変わってきます。

芸術は崇高なるモノ、という信仰があるのと同時に
もっと身近で下世話なものでもいいんじゃないかという思いがあります。

敷居が高すぎると、観客もかまえてしまいます。
かと言って、低すぎると足元を見られます。
要はバランス感覚の問題になってくるのです。

歌舞伎や能や文楽という伝統芸能がある一方で
開演前からビールを片手に、真夏の夜のテント芝居なんてものもあります。

フィクションの世界を、ノンフィクションの世界に変えるものが芸術だとすれば
真の世界から、とある事象の一部を切り出し
虚構の世界で組み立て直すという作業が必要です。

その過程において、創作者は、一度はったりという大風呂敷を広げて
最終的に、キレイにパッケージして完成させているわけです。

ウソは大きければ大きいほどいい。
そのウソをどれだけ本物に見せることができるのか
そこが腕の見せ所になってきます。

ノンフィクションをノンフィクションのまま伝えようとするのであれば
それは別の世界の出来事になります。

たとえば、震災に対抗できるだけの物語を僕はまだ知りません。

可能性があるとすれば、おそらく二つ
一つは、完全なノンフィクションとしてありのままを伝えること。
もしくは、思いっ切りファンタジーと割り切って、冒険を描くこと。

どちらにしても、原因そのものには無力です。
ですが、原因そのものには無力でも
ひと時だけ悲しみをストップさせることができるかもしれません。
癒すことはできなくても、束の間の安らぎを提供できるかもしれません。

人は誰かを赦し、そして誰かに赦されて生きていくのです。
そのきっかけにはなることができるかもしれないとしたら
大風呂敷を広げたはったりも、まんざらではないと思うのです。

騙したあんたが悪いのか
騙された私が悪いのか。
演歌の歌詞にでも出てきそうなフレーズですが
少なくとも、その世界に浸っている間、夢を見ることは決して悪いことじゃない。
夢を見続けることが明日を生きる糧になるなら、いつまでだって夢を見ていたい。

けれど夢はいつか醒めるもの。
醒めた後に残った手触りが、もしもあなたの琴線に触れているのなら
それは本物ということになります。

本物と呼ばれる作品、いつか作ってみたいです。


2 Comments

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    思わず色々な記事を読んでしまいました!これからもアップ頑張ってくださいね!!僕のブログは恋愛のお話をしています!読者登録してくれたら嬉しいです!!

  2. SECRET: 0
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    >白いライオンさん
    こんばんは。
    お立ち寄りくださり、ありがとうございます。
    これからも粛々と更新していく予定です。
    また気軽に遊びに来てくださいね。
    ・・・恋愛の話、気になりますねえ。

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