悪魔も時には真実を言う

TERAYAMA Shizumi/ 1月 31, 2012/ へんなことわざ/ 2 comments

$こうたろ.com
「天使と悪魔が戦っている。戦場は人の心の中だ」
(ドストエフスキー)

我が身に置き換えてみると

吉野家の牛丼を並盛りにするか大盛りにするか悩む。
コカコーラを飲むのかジンジャーエルを飲むのか悩む。

はい、どうしようもないたとえですいません。
とっとと本題に入りましょう。

人、は生きていく中で、自分だけの物語を紡いでいます。
というのは、半分は事実で半分は嘘です。

なぜ事実かといえば、自分で決断し行動するから。

では嘘とはなにか。
人は他人から与えられた物語の上を歩くこともあるからです。

例えば、スポーツの試合を観て感動したことはありませんか。
失恋した時に、応援ソングを聴いて癒されたことはありませんか。

自分の力だけでは自分の物語が破綻しそうになった時
人は他人が用意してくれた物語の力を借ります。

他人が用意してくれた物語は、自分を傷つけることはありません。
なぜなら、その物語を選んだのは、他ならぬ自分自身だからです。

では本当に追い詰められた時、すがる物語とはなんでしょう。
これが宗教の正体です。

と、言い切ってしまうのは、実に日本人的発想ではありますが、話を進めます。

神様はどんな告白にも耳を傾けてくれます。
そしてどんな質問にも答えてくれます。

キリスト教でいえば、懺悔と告白だし
日本人は神社でおみくじを引いて、今年の運勢を確かめます。

日本人には、この宗教という概念がなかなか理解しづらい部分があって
むしろ熱心な信者を目の前にすると、一歩距離を置こうとするむきがあります。

特に、新興宗教がブームになった時などは
マスコミは、こぞって、陰の部分からその集団の物語を描こうとしました。
カルトという言葉がその事実を端的に表しています。

実際、オウムのような事件が起きてしまうと
新興宗教は完全な悪として見られてしまいます。

あの事件が起こった時、麻原という人物は、実に力のある物語を用意しました。
そして多くの信者がその物語を信じ、悲劇は生まれました。

先ほど、他人が用意してくれた物語は、自分を傷つけないと言いましたが
一つ条件があって、それは、その物語の登場人物になっている時だけです。

麻原という人物が用意した物語の登場人物になり
在家、または出家して、修行に励み善行を積もうとしている。
ここまでは悪ではありませんし、誰も傷つかない。

けれど彼の物語には続きがあった。
それもとびっきり救いのない物語でした。

そしてその救いのない物語の登場人物たちこそ
一連の事件を引き起こしたのです。

他人が用意してくれた物語にすがることは簡単です。
けれど、その物語の行間を読む力を養わないと、同じ過ちを繰り返します。

行間を読む力は、残念ながら国語の授業では身に付きません。
解釈も人それぞれです。

何を持って善しとし、何を持って悪とするのか
その答えを探し続けることが、生きるってことだと思うのです。


2 Comments

  1. SECRET: 0
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    浅田次郎さんがエッセイでオウムの麻原は「現実との妥協という解脱ができなかった」というようなことを書いていて(ちょっと違ったかな)「なるほど~」と思ったのを思い出しました。
    「自分を受け入れてくれない」現実からの逃避の材料になってしまったというか…
    でもそれが受け入れられたというのは、やっぱりニーズがあったんですかね…それがこうたろうさんの書かれた「他人の用意してくれた物語にすがる」ということなのでしょうね…

  2. SECRET: 0
    PASS:
    >すずめさん
    思うに、結局人は独りで生きていくには弱い生き物なんでしょうね。
    だから、家族や恋人や友人や会社や世間体に身を委ねたくなる。
    けれど今の時代、それらは幻の共同体であって、昔ほど強い力を持っていない。
    そして安易に流れ流れたどり着いた場所が、たまたま居心地がいいと、その物語に吸い込まれてしまうのかもしれません。
    難しいですね(;^_^A

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