目黒のサンマ

TERAYAMA Shizumi/ 2月 27, 2013/ 落語/ 0 comments

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モノには何事にも「旬」というものがありまして
食べ物であれば、季節もののことだったり
芸能界で言えば、今売れているアイドルや芸人さんだったりします。

そしてやはり何事にも終わりというものがありまして
「旬」を過ぎたモノは消えてなくなるのが世の常です。

儚さは、日本の文化の一つでもあって
四季折々、花鳥風月を楽しむことが、和みとなって人々の心を癒します。

ところがどっこい
「旬」を「ウリ」にしている人たちにとっては死活問題になってきます。
だって「旬」が終われば消えていくだけですから。

一昨年の流行語大賞とか、憶えている人はどれくらいいるのだろうって話です。

たとえば、今年雑誌のグラビアを飾ったお姉ちゃんたちが
来年もまたグラビアを飾れるのかというと、その可能性はものすごく低くなります。
だって若くてキレイなお姉ちゃんは、毎年のように現れてくるのですから。

だからこそ、自分だけの「ウリ」が求められるのです。
時代の波に飲まれない確かな「ウリ」が。

昨日の記事でご紹介したTHE BLUE HEARTSが未だに愛され続けているのは
時代を掴み、なおかつ時代そのものを背負っていたからだと思っています。
記録よりも記憶に残るという、典型的なパターンです。

シェイクスピアの作品が未だに上演され続けているのは
彼の戯曲が時代を映す鏡であり、それだけの深みと重みがあるからです。
たかだか30数編しか作品化されていないというのに。

とは言っても、時代を背負うなんて、それは後世の人々が判断することであって
歴史がそれを証明してくれます。

だから作り手にできることは、「現在」を切り取るだけなのです。
それが「過去」を掘り起し「未来」を想起させるものであるなら
いつかきっと、歴史の一部を担うことができるでしょう。

まもなく、東日本大震災から2年が経とうとしています。
僕の中では、今でも「現在」として心に焼き付いています。
なぜなら原発の問題も含めて、現在進行形で進んでいるからです。

あの震災が作り出した「物語」を超える「物語」を
僕はいまだに見つけられません。

地下鉄サリン事件を引き起こした物語を
超える物語が見つからないのと同じように。
ニューヨークの同時多発テロの物語も然り。

事件を風化させないことも大切なことですが
僕は僕なりの方法で、これらの物語と向き合おうと思っています。

「哀しみ」を「癒す」ことが不可能だとしても
明日を生きる意味を見つけることができるように。

「希望」の灯が消えないように。


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