文違い

TERAYAMA Shizumi/ 2月 5, 2013/ 落語/ 0 comments

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今でこそ、携帯電話のメールで、色々な人とガシガシやり取りができますが
そんなものが登場するずっと昔、想いを伝える手段として用いられたのが手紙。

汚い文字でつたない文章をつづり、一人で悦に入っては
ああでもないこうでもないと、脳内シュミレーションを繰り返します。

直接話すわけではないから、誤読されると、後々までやっかいになるけれど
逆にそれがきっかけで新しい絆が芽生えたり、友情が深まったり、喧嘩したり
人生どこでどう転ぶのやらといった感じで
よくよく考えれば、なんてスリリングな思春期だったなと感慨にふけります。

「人間は誤解の総体で成り立っている」とは、ある作家さんの言葉で
(つまりは僕なんだけれども)
その誤解力ないし、勘違い力の最たるものが恋っていうんだから
人間の心理ってやつは、実におもしろくてやっかいじゃないですか。

恋は落ちるもの、であるならば、問題は、落ちた場所ということになります。

幸福な泉で身を清めるような恋もあれば
どつぼにハマって沈み行くだけのような恋もあります。

何が正しくて、何が間違っているなんて、誰にも分かりません。
きっと本人ですら分かっていないと思います。
だって理性でコントロールできないから、思い、悩み、身悶えるわけで。

けれど、恋には時効があります。
シンデレラが夜の12時を過ぎると魔法が切れてしまったように
いつか恋は冷めるもの。

惚れたはれただけでは限界がやってきます。
勘違いしていたことに気がつく瞬間ですね。

そして恋は冷めても想いは残った。
シンデレラがガラスの靴を残していったように
相手の胸にしっかりと足跡を刻み込んでいけたのなら、そこからが本当の始まり。

人はそれを愛と呼びます。

恋は勝手に落ちるものだけど、愛は育むものです。
恋愛に限らず、母性の愛、友愛、情愛、色々な形と種類がありますが
今度は一人でもがいても、どうにもなりません。

パートナー、あるいはメンバーと時間をかけて煮詰めていく作業を要します。
煮詰めて、ダシが出て、下味がついたのなら
あとはご自由にデコレートしてもらえばいい。
それが本当の共同作業の始まり始まりというわけです。

本日未明、市内で、母親が中学生の娘を包丁で切り付けるという
とてもとても痛ましい事件が起きました。
詳細はまだ不明ですが、絶対にあってはならないことです。

若い夫婦が、子どもを虐待したり、遺棄したりする事件も後を絶ちません。
精神的に未熟だと言えばそれまでですが
二人の間で恋が終わって、勘違い力が無くなった時に、愛を育む努力を怠り
やり場のない感情のぶつけどころを子どもに向けてしまうのだとしたら
それはやっぱり悲しいことです。

人は独りで生きていけるほど強い生き物ではありません。
誰かと寄り添うことは恥ずかしいことではない。

恋人、家族、友人、誰でもいいのです。
たまには、想いを文にしたためて、形にして相手に届ける。

そういうささやかだけど確かな幸せ、噛みしめてみたいと思いませんか。


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