百聞は一見に如かず(ひゃくぶんはいっけんにしかず)

TERAYAMA Shizumi/ 2月 16, 2016/ 故事成語/ 0 comments

miru

実家に帰ってきてからというもの
友人・知人と面と向かって話すという機会が
激減していることに危機感すら覚えるようになりました。

SNSが普及したおかげで、みんなが何をして何を考えているのか
なんとなくの動向は分かっているつもりなんです。

だから
自分の中ではご無沙汰しているという感覚が薄かったのですが
よくよく考えると、それはネットの中という
ごく限られた世界の中の出来事であって(つまりはバーチャル)
血の通った交流とはまた別モノなんじゃなかろうかと思うのです。

たとえば
ライブDVDを観て、あたかもライブにいったかのように感じるとか
芝居のDVDを観て、劇場で観劇したかのような錯覚に陥っているとか。

それが21世紀のスタンダードだと言われてしまうと
いやいやちょっと待ってくれよと抵抗したくなるのは
自分が、昭和のしっぽをかじって生きてきた人間だからでしょうか。

しかし、21世紀のスタンダードの恩恵に与っていることは事実であって
どんなに抵抗しようとも、そこから逃れることはできません。
むしろ救われていることの方が多い気がします。

頭じゃ分かっているんですけどね。
心が時々反抗期なんですな。

出不精、金欠、インドア派という性格だったり状況が
さらに拍車をかけていることも否めません。
物理的な距離や移動に費やす時間が影響していないと言ったら
それはそれでウソになりますし。

でもねでもね、100枚の写真を頂くより、1回のデートを。

…なんのこっちゃという話ですが
要はただの寂しがりやなんじゃんという
身もふたもない結論にたどり着いてしまいました。

SNSでのつながりは、同じ時間軸を生きているという意味において
とても大きな意義のあることだし
それが新しいコミュニケーションの形なのかもしれません。

んが、同じ空間を共有しているかと言えば
その答えはやはりノーと言わざるを得ない。

だって、隣にいないんだから。
手の届く距離で会話をしていないのだから。

さきほど、SNSは新しいコミュニケーションの形と書きましたが
基本的には自己発信と受け身によるリアクションだけですから
果たしてそれをコミュニケーションと呼んでいいのかどうかという
素朴な疑問が無きにしも非ずなんです。

独りになりたくなかったら、行動せいっちゅう話ですよ。
結局のところは。

待っていても、言い寄られるタイプの人間ではありませんので。

2016は、再会と開拓をモットーに
もうちょっとアグレッシブになっていこう。

…毎年同じようなことをつぶやいていますが、そこはお察しください。

ぶひっ。


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