上善は水のごとし(じょうぜんはみずのごとし)

TERAYAMA Shizumi/ 10月 14, 2015/ 故事成語/ 0 comments

mizu

昔々、とあるワークショップに参加した時のことです。
「自分をモノに例えるとなんですか?」という質問をされました。
(どんなワークショップだったんだろう…?)

その時に僕は「水」と答えました。
状況や環境によって、気体にも液体にも個体にもなるけれど
水を構成する元素、つまり本質は変わらないという意味です。

今にして思えば、なかなか確信をついた答えだった気がします。

たとえば、仕事中の僕とプライベートの僕では
当たり前のことですが、立ち振る舞いが違います。
プライベートでも、オンの時とオフの時ではやはり別物になります。

でも「ワタクシ」という「個」は、どこへ行っても変わらないわけです。

そう思えるようになると、色々なことが楽になってきます。
肩の力が抜けるというか、変な気の使い方をしなくていいというか。
他人に対しても、自分自身に対しても。

若かりし頃
一度くらい「本当の自分は何者なんだ!」という葛藤を経験した記憶はないですか。
思春期によく見られる、自分探しの旅に出る瞬間です。

でも、なんだかんだとあちらこちら彷徨いながら
360度回転して戻ってきた頃には、そんな旅に出たことすら忘れてしまい
それが「大人になることなんだよ」と、分かったような顔をしている。
何を手に入れ、何を失ったのか分からないままに。

よく、人生を旅に例える人がいます。

ならばと思うのです。
その旅に地図やコンパスはありますか。
当てのない旅を続けることはしんどくないですか。

地図やコンパスがないと迷子になります。
だって当てのない旅なんですから。
どこへ向かって歩いているのか分からないわけですから。

人はそれを不安と呼びます。
つまり、人生は旅であって、自分が旅人である以上
不安から逃れることはできないのです。

そして不安から逃れるために、人は他人の地図に頼ろうとします。
家族か恋人か仕事か世間か宗教か、それは分かりませんが
他人が用意してくれた、自分のモノではない地図の上を歩こうとします。

でも、本当にそんなことは現実的なのでしょうか。
他人の地図の上を歩くことで、不安から逃れることができるのでしょうか。

確かに、一時は楽になるかもしれません。
もしかしたら、目的地が見えるのかもしれません。

けれど、その目的地はきっと幻だと思うのです。
旅に疲れ、歩くことを止めようとした旅人の見る蜃気楼だと思うのです。
人は分かりあえるという祈りだと思うのです。

残念ながら、祈りで不安は消えません。

…という身もふたもない結論で終わるには、寂しすぎるので
本日はもう少し踏み込んでみたいと思います。

他人の地図の上を歩くことはできなくても
他人と自分の地図が重なる瞬間はあり得ます。

瞬きほどの時間なのか、何十年と続く長旅になるのかそれは分かりませんが
確かに重なる瞬間はあり得るのです。

それも一人や二人ではありません。
何層にも何層にも重なって、行く先々でどこかの誰かときっと出会える。
その可能性は誰にでもある。

可能性という言葉を使いましたが
人生が旅であり冒険であるのなら、定まった路を歩くのではなく
可能性のある人生の方が何倍も素敵だと思うことは不謹慎でしょうか。

なり得たかもしれないもう一人の自分、という可能性。
なり得るかもしれないもう一人の自分、という可能性。

過去の行いを反省し懺悔するのであれば
それ以上に、希望を語り謳うことくらいしたっていい。

あなたの地図の最下層には、澄んだ水が流れています。
時に水の力は、理不尽なまでに暴力を振うこともありますが
それでも、ゆらゆらと流れ、せせらぎが聞こえてくるはずです。

不安で押しつぶされそうな夜に
そのせせらぎに耳を傾けてみてはどうですか。


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